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2009年10月15日

解読!アルキメデス写本

 1998年、1冊の手書き写本がニューヨークで競売にかけられる。競り合ったのは、ギリシャの総領事とある資産家の代理の書籍商だ。写本は結局220万ドルで、謎の依頼人の手に渡ることになる。
 焼け焦げてカビが生えた本になぜそんな価値があるのか。それが古代の天才数学者アルキメデスの現存する最古の写本(10世紀成立)だからである。ただし、その文字は13世紀に上書きされた祈祷文などのしたになり、ほんのかすかにしか読めない。
 本書はこのアルキメデス写本解読の過程とそれによってもたらされた数学史上の発見をめぐる物語である。解読作業のプロジェクト・ディレクターを務める学芸員ノエル氏とアルキメデス写本の研究者ネッツ氏が各章を交互に執筆している。前者が写本のたどった数奇な歴史や困難を極めた修復過程、そして、先端技術を駆使した写本の画像化を語る一方で、後者はアルキメデスの数学的思考の独創性や新たな発見の意義を解読するといった具合である。
 大勢の研究者や技術者からなるプロジェクト・チームの協力によって写本の文字が徐々に浮かび上がり、解読され、数学史学的な重要性が見出されてゆく。著者の二人の知的な興奮が読者にも如実に伝わってくるような、見事な叙述と構成だ。そもそもアルキメデスの思考法そのものがあくまで図形に即していたこともあり、ネッツ氏の説明を読みながら丹念に図をたどれば、一見難しそうに見える幾何学命題の証明も、予備知識なしに理解できることだろう。
 著者は、アルキメデスの論証にはいつも「手品の瞬間」があるという。本書は、いわばそんな手品の醍醐味を素人にも味わわせてくれる。
 本書に登場する数学史家・斎藤憲氏の解説を得て、この翻訳は、精度が高いのみならず、ある意味では原書に勝るものともなった。上質の歴史ミステリーであるとともに、書物や知の運命について深く考えさせる一冊である。

解読! アルキメデス写本

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2008年07月27日

『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』ダニエル・ケールマン著

 天才と努力の鬼。天才は8歳で、1から100までの整数をすべて足し算せよ、という問題を三分で解いた。近代数学のあらゆる分野に影響を与えたガウスである。努力の鬼は9歳で、自ら羅針盤を作り、屋根に取り付けた。ドイツでは二番目の早さ。近代地理学の祖、フンボルトである。両者が1827年、老いを感じる年になり、初めて会う。なら退屈な偉人伝か。と思いきや、この長編は終始笑いに溢れている。
 フンボルトはアマゾン川とオリノコ川の分岐点を踏査し、当時、世界最高峰とされたチンボラソも登山した。彼は、ベルリンでの科学者会議にガウスを招く。一方、ガウスは旅嫌い。出発日の朝もベッドから離れず、妻子に起こされると、悪態をつき、壷を叩き割る。フンボルト低では写真の発明者ダゲールが待ち構え、写真撮影を始めるものの、警察官の尋問で画像は霧散。当時のドイツは連邦制ながら、各邦国はバラバラで、フランス革命の余熱も燻り、警察の取り締まりは厳しい。この時代背景を浮かび上がらせつつ、ドタバタ騒ぎの幕開けだ。
 2章以降は、二人の生い立ちと仕事振りが交互に描かれる。フンボルトは洪水に遭おうが、高山病で幻覚を見ようが、調査を続け、死体まで蒐集する。売春婦のシラミの数さえ統計に取る。ガウスは新婚初夜に惑星軌道の計算を始め、ナポレオンにも戦争にも気づかない。二人は、無類の行動、頭脳で「世界の測量」を続けてきたが、共に周囲に無頓着。だから笑いが沸き立つ。この笑いは不自然でない。細部に及ぶ時代考証、会話と語りを一体化した独特の文体のためだ。
 十一章になって冒頭に戻るが、二人の会話はチグハグ。にもかかわらず友情が芽生え、そこからもう一波乱。友情の根にはお互いの孤独がある。老いばかりでなく、彼らの心奥には、やがて時代は個人の力を弱め、世界は狭まり、凡庸な組織ばかり肥大するという予感がある。作者の時代を透視する眼が全編に光る。

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語
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2008年06月19日

テロリズムを理解する

 理不尽なテロ攻撃を受けた米国人が、テロリズムをどのように「理解」するのか。米国の心理学者たちによる論文集だ。
 貧困、焦燥、アイデンティティの希求などさまざまな要因がテロリズムを生む。たとえば、モハダムは、@孤立A善と悪の対立という世界観Bこの社会を不当で不正義と知覚することC急進的社会変革が急務という認識D変革達成の合法的手段がないという認知E理想社会の実現があらゆる手段を正当化するという信念 などを、テロリスト集団を生み出す文化的先行条件とする。
 そのほか、中東という地域の心理・文化を理解しようとする論文、道徳的に正当化できない行為を正当化するテロリストの論理を分析する論文、さらにテロリズムのもたらす心理的影響(トラウマなど)からのアプローチなど、手法も多様である。
 もちろん本書の中にも、テロリズムは放火や殺人と同じ一般的犯罪にすぎないのだと主張する論者もいるが、米国人は世界の多様性について無知であり、自民族中心主義的である、という自覚から出発する論者も多い。たとえばマーセラは、今後は心理学が欧米以外に眼を向けること、つまり心理学の国際化が必要だという。
 だが読み進めるうちに、「テロとはらっきょうのようなものだ」と思えてくる。つまり、外側からいくら皮をむいても、結局中身は逃げてしまうのだ。それは、学者たちが自分をテロの外側に置いているからだ。自分の内面とテロリズムが実はつながっている、という自己破滅的な自覚から出発しないからだ。
 しかし、それでも、あくまでテロリズムを理解しようとする真剣な姿勢は、感動的ですらある。日本で北朝鮮たたきが盛んだった時期、日本の知識人はこのような努力をしただろうか。理解することの不可能性に圧倒されながら、それにもかかわらず真摯に理解しようとしたであろうか。

テロリズムを理解する―社会心理学からのアプローチ
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ジョン・ブロックマン編『キュリアス・マインド』

 二十七人の科学者が、子供時代と科学者になったきっかけについて、自由に書いたエッセイ集。
 「マウンテンゴリラになりたかった少年時代」を熱く語る生物学者(ヒゲモジャの顔写真を見るに、彼が夢を諦めていないことがなんとなくうかがわれる)。思春期に自分を振り回した性衝動の正体を解明すべく、現在も嫉妬や性行動の研究に打ち込む心理学者(「自分は不器用だ」と言っているが、たぶんもてるんだろうなと容易に推測できる魅力がある)。愉快で奔放で、でも真剣なエッセイばかりだ。私が一番好きなのは、物理学者のJ・ドアン・ファーマーの文章で、風変わりな近所の若者トムと過ごした少年時代の思い出は、青春短編小説のような輝きと冒険に満ちている。
 科学者になりたい少年少女はもちろんのこと、どう転んでも科学者にはなれなかった大人にとっても、読むと心が躍る一冊だ。


キュリアス・マインド
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P・グリッツマン、R・ブランデルベルク著『最短経路の本』

 担当区域内に十の顧客がいる。セールスマンが、そのすべてを最も効率よく回るためには、どのような順路を取るべきか。理論的には、順列組み合わせを計算し、その中から最短経路を選べばよい。しかし、もし顧客の数が百になったら?大爆発が起こる。可能性の数が急激に増大し、スーパーコンピューターを使っても計算に何年も要する超難問に化けてしまうのだ。これが「巡回セールスマン問題」である。現在も路地スティックス(物流システム)や航空機の機材配備、発券などの最適化に関わる実用的な数学上の問題である。
 本書は、数学嫌いの女子高校生とコンピューターの対話を通して難問を軽妙に解き明かす。ドイツ語の原書はベストセラーになったそうだ。子供の理系離れは、大人の理系離れに原因がある。こういう良書は、まず大人が読み、その面白さを知った上で、子供たちに薦めたい。


最短経路の本
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キース・デブリン、ゲーリー・ローデン著『数学で犯罪を解決する』

 連続殺人犯の居場所を犯行地点の情報からどうやってつきとめるか。テロリスト組織の中心人物はどうすれば特定できるか。
 本書は、こうした犯罪捜査の現場で実際に用いられている数学を、ほとんど数式なしでわかりやすく解説している。
 米国の人気ドラマ『NUMB3RS・天才数学者の事件ファイル』から生まれた書物だが、ドラマの知識は必要ない。ここで紹介される、数学理論を駆使した現実の捜査過程自体が、十分にドラマチックである。
 テロ対策の話題が多く、9・11事件の影が色濃い。数学は対テロ戦争の最重要の武器なのである。また、米国の法廷では、数学的証拠の評価が陪審員にも求められているという。本書が扱う数学の知識は、将来の市民的常識なのかもしれない。
 訳文は非常に読みやすい。訳者あとがきで、参考書も豊富に案内されている。

数学で犯罪を解決する
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2007年10月24日

山崎正和著『社交する人間』

 社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)
 山崎正和は「関係」を語れる珍しい人だと思う。
 「関係性から考えよう」と唱えるだけなら誰でもできる。実際そういう本は多いが、たいてい失敗に終わっている。「私の感じ」や「客観的事実」につい頼ってしまうからだ。二人称の世界は、自分の感覚をおしつける一人称や神さまの目を借りる三人称で語ると、死んでしまう。そこでがんばれる点で、稀有なのである。
 この本でもその冴えは随所に発揮されている。従来、社交は好き嫌いという感覚か、社会的な儀礼という事実に還元されてきた。著者は先史時代から現代のネットワークまで、さまざまな社交と社交論をとりあげながら、「社交」の本来の姿を浮かび上がらせようとする。
 内容と形式、遊びとまじめ、芸術と技術、倫理と慣習といった二項図式を一つ一つ解きほぐしながら、好き嫌いか儀礼かという平板な社交観に意外な陰影をつけていく。そのはてに仄見えるのは、あてどなくゆらぎつつ、しかし人の生の深みをどこかとらえてはなさない「何か」だ。その手つきは、一人称にも三人称にも還元しない著者の感性のありかをよく示している。
 しかし、いくつか食い足りなさも残った。例えば、社交の問い直しは、文芸批評や歴史学だけでなく、社会学でも進んでいる。著者が注目する15〜17世紀西欧での社交の復活にしても、ドイツのN・ルーマンが当時の文献史料を豊富に引きながら、最新システム理論で解釈する分厚い著作を書いている。そういう本格的な研究にふれていないのは、やはりさびしい。
 まて、時空と分野を縦横無尽に駆けめぐる議論は、時にあまりに縦横無尽すぎて、「神さまが語る人類史」に見えてしまう。その点で「社交する人間」という括り方は、かえって三人称的な語りに引き寄せられるように感じた。

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)
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2007年10月22日

エミール・ゾラ著『ボヌール・デ・ダム百貨店』

 ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生 (ゾラ・セレクション)
 ストレスの即効薬、それはショッピング。ただし生活必需品はだめで、大根を買っても気は晴れないが、無駄な出費はスカッとする。かくして私の机の上にはフラワーろうそく、音符鉛筆、サンタクロース耳かき等、意味不明なモノがひしめきあっている。
 パリの百貨店店長のムーレいわく、女性は「必要がなくても買う」。読み捨てならないこの台詞、1883年刊行の本書に出てくるのだから、いつの時代も変わらないなぁと感心してしまう。
 百貨店という商業形態は、当時の最先端だが、今は古典となった。しかし百貨店を描くゾラの筆は、古典と呼ぶには生々しすぎる。薄利多売の大型店舗が商店街を滅ばす。従業員は出世競争に神経をすり減らす。客は買い物依存症や万引きに走る。
 ヒロインは、けなげな売り子のドゥニーズ。彼女が店長のハートをつかみ、めでたし、で終わる。単純なメロドラマが、複雑怪奇に増殖する細部を、辛うじて押さえ込んでいる、という印象だ。底抜けの浪費で夫を発狂させるマイティ夫人など、脇役が、善意の主役を喰っている。
 ゾラは消費社会を予告し、告発しているのだろうか。実は作家の態度は曖昧だ。百貨店は唸りを立てる「機械」で、客を食らい、商売敵を粉砕する。同時に美の「神殿」であり、バーゲン会場は地上の楽園の様相を呈する。色とりどりのサテンや絹が「奔流」となって溢れ、レースは「夏空を浮遊する蜘蛛の糸のように漂い、その白い吐息で空中を満たす。」
 非人間的なシステムの中で、、人間よりも生き生きと、商品が輝いている。システムを断罪するのは簡単だが、その輝きに魅惑されるのもまた人間の本性である。反発しつつ溺れている点で、ゾラは新しい。本書は「ゾラセレクション」の一点。ゾラが次々と訳される今の日本が、彼に追いついただけかもしれないが。

ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生 (ゾラ・セレクション)
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二クラス・ルーマン著『近代の観察』

 近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)
 一昔前、ポストモダンという言葉が流行った。あれはとても気持ち悪い言葉だった。例えば幕末の志士たちは「日本を変えなきゃ」とはいったが、「今までは江戸時代、これからはポスト江戸時代」なんていわなかったはずだ。
 でも私たちはいっている。あたかも未来人のように自分たちの時代を名づけ、そのいく末をしゃべる。とっても変だが、実はそれこそが私たちが何者で、私たちの社会がどんな社会なのかを一番よく物語るのだ、と著者はいう。近代とは「近代の観察」をする時代なのである。
 その視点から著者は私たちの現在をするどくえぐっていく。マルクスやウェーバーといった大御所もm鮮やかに料理されていく。とびきりの名人芸だけに、鑑賞する側にもそれなりの努力と眼力を要求するが、浅くわかりやすいマニュアル本が氾濫する時代だ。徹底的に考えるとはどういうことか、飛び込んでみるのも悪くない。

近代の観察 (叢書・ウニベルシタス)
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川西政明著『文士と姦通』

 文士と姦通
 「本書では姦通だけを唯一のレンズにして文士の生存のかたちを描き出していきたいと思う」と前書にある。その極端さに惹かれて手に取ったのだが、面白くて引き込まれた。
 谷崎潤一郎や北原白秋のような官能的な作風の書き手なら、「姦通」体験にもなんとなく納得するのだが、島崎藤村や志賀直哉も相当アクティブだ。志賀直哉はあんなに澄んだ目でこんなことをしてそんなことを書いていたのか、と呆れながら感動する。一方、岡本かの子ら女性陣もぶち切れたスケール感をみせてくれる。
 作家は今もいるが「文士」はいない。不倫はあるが「姦通」はない。それだけに「文士」の「姦通」の現場に出現する葛藤の大きさ、歓喜の強さ、絶望の深さは、私の目には新鮮に映る。
 又そこには派生事項としての「絶好」などもしばしば現れる。これも今では殆ど耳にしなくなった言葉である。本書には「姦通」や「絶好」が成立した時代の空気が閉じ込められている。

文士と姦通

原研哉著『デザインのデザイン』

 デザインのデザイン
 デザインとは何なのか。当初本書の題名は『それはデザインではない』になるはずだったという。ここ数年異常ともいえるデザインブームで、様々な一般メディアがデザイン特集を組んだり、デザインの最新動向を伝えている。しかし、そうした流行とは裏腹にそこで語られている事はひどく表面的で貧しく、時にはデザインの本質とは正反対のものがデザインと呼ばれている。著者はそうした状況を苦々しく眺めながらそれでもデザインについて手探りで真摯に探求してゆくうちに、これまで誰もたどりつけなかった手ごたえのあるデザイン思考にゆきつく。
 例えば、コップをつくることがデザインではない。コップとは何かを問いかけ、コップを自己と社会の鏡として認識し、コップが人と世界の関係を変える可能性について考え、その本性を見つけてゆくのがデザインなのだ。つまりデザインにおいては存在論(私たちは何か、世界とは何か)と認識論(私たちはどのように知るか)とが、しっかりとむすびついていなければならない。
 デザインとはただものを構想し、計画し、つくりあげることではない。デザインとは人と人の間にある、人と世界の間にある関係の本質に静かに手を伸ばしてゆく試みである。人の心や体が時代や社会に引き裂かれそうになる時に、その悲鳴や言葉にならない叫びを聞きとり、消え入ろうとする繊細な感受性や美意識に新たな形を与えながら人と世界をともに生き返らせようとする冒険である。その時、デザインは単なるグラフィックやプロダクトではなく、人と心と体の状況をあらわす方程式のようなものとなり、その形そのものが人の精神や記憶をとどめ、過去や未来を現前化させる役割を果たすことになるだろう。本書の行と行の間にじっと耳を澄ますと、生活という時間の堆積の中で顕在化されなかった生きることの未知の喜びが、思いもかけない形で浮かび上がってくる。

デザインのデザイン
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2007年10月14日

横山秀夫著『臨場』

 臨場 (光文社文庫 よ 14-1)
 不可思議な死がある。自殺と見せかけた他殺、他殺のように思える自殺。寿命を全うせず訪れる突然の最後。
 新聞記者や検視官、刑事や婦警、異なる視線で描かれた八篇の短編小説が収められている。この八篇が浮かび上がらせるのは、終身検視官と呼ばれる、捜査一課調査官、倉石義男というひとりの男だ。彼はその眼力の鋭さで、不可解な死体の謎を次々と暴く。それが自殺に見せかけた他殺なのか、他殺と思わせる自殺なのか。それとも単に事故なのか。
 しかし倉石が暴くのは、不可思議な死の謎だけではない。死と生は連動している。死の謎を暴くことは、生のある局面に触れることでもある。読み始めてすぐ、読みやめられなくなった。それは意表をつくような謎解きの魅力の故もあるが、それだけではなく、死者の生を、生きていたひとりの人を、どうしても知りたくなるからである。生きている人の持つ物語は、奥行きがあればあるほど読み手を引きつける。
 ひとつひとつの小説が、人の生の重さを見事に書き出していて、病気でも寿命でもない死の謎は、生の謎でもあると思い知らされる。「餞(はなむけ)」という短編がもっとも強く心に残った。定年を間近に控えた刑事部長の元に毎年届く、差出人のない葉書。その謎を解きながら、倉石は、刑事部長と身元のわからなかった死者の人生を鮮やかに肯定する。その肯定の強さに、泣いた。
 無口で無愛想、冷徹で人間味をあまり感じさせない倉石という検視官が、読んでいくに連れ、痩せぎすの体の内に、見かけとは不釣合いな人間愛を忍ばせた、人間くさい男に見えてくる。それは彼の扱うものが死ではなく、生だと気づかされるからだ。八篇の小説に、倉石は影のごとく見え隠れするだけだが、無念な死を逆転させて、ささやかな生に深い意味を与える、孤高の終身検視官の魅力に読み手は必ずつかまえられる。

臨場 (光文社文庫 よ 14-1)
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池内紀著『川の旅』

 川の旅
 「川は自然の作った迷路である」と前書きにある。北は北海道の十勝川から、南は奄美大島の河内川まで、全国の「迷路」を、エッセイの名手としても知られるドイツ文学者が旅してつづった三十六編である。
 実際に土手を歩き、地元の人と言葉を交わしていくうちに、それぞれに異なる川のカオがはっきりとした輪郭を見せ始める。「川の素人」と自認するから声高に自然保護を唱えたりはしない。だが、地名に残る歴史、田畑などの岸辺の風景、治水の工夫、そして文学作品などを平易に描いて、昔から現在まで脈々と築かれてきた、川と人間とのかかわりの深さを浮かび上がられる。
 たとえば長野県のよろずい川の一遍はこう始まる。「山を下りてきて思い立った。わさびを買って帰ろう。」著者がその小さな手土産を手にするまでの間に、読者は、豊かな水に恵まれた山国の自然とくらしを知ることができる。

川の旅
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中川武著『日本の家』

 日本の家―空間・記憶・言葉
 家は、快適で住みやすいのが一番。プライバシーは保たれていなければならないし、すきま風などもってのほかだ。その点、伝統的な家屋は欠陥だらけ。では、日本家屋とは、不便を克服する思想や技術が未発達な段階の、単なる通過点の建築に過ぎないのだろうか。
 例えば、縁側や土庇をそじょうに載せる。この内とも外ともつかない空間を、著者は≪外部の自然を住空間に取り入れたいという日本人の根強い欲求≫の結果、生み出されたものと考える。側面に戸棚や引き出しなどを設けた箱階段は、こう解釈する。本来、居住空間ではなかった上階への移動施設は秘されるべきもので、昇降の手段であるという階段の意味を隠すため、この収納形式が発生した、と。
 かつての日本人は、こうした情緒的な欲求のため、住みやすさを犠牲にしてきたのだろうか。いや、心を満たすことに執心した彼らのほうこそ、快適さの条件は厳しかったといえるのかもしれない。

日本の家―空間・記憶・言葉
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2007年10月13日

ジョセフ・ナイ他著『なぜ政府は信頼されないのか』

 なぜ政府は信頼されないのか―MPAテキスト
 ハーバード大学ケネディ行政大学院のMPA(行政経営学修士)用の教科書でもある。MPAとは連邦政府など公共セクターの志望者のためのもので、ビジネスにも公共精神が求められる今日、企業の関心も高い。筆頭編集者のナイ教授はクリントン政権下で国防次官補を務め、冷戦後の米政府の継続的アジア重視を打ち出した東アジア戦略報告の担当者としても知られる。
 ケネディ・スクールと呼ばれるその行政大学院では、機構論や政策論を平板に習得させて知識を競わせるのではなく、決定的な質問に対して執拗に考えさせるという手法をとる。本書の表題のような質問である。その答えを出し、問題の流れを反転させることこそエリートの責務と考えるからだ。そのためには、まず事実を把握し、背景を考察し、対策を考案する。
 この二十年間で連邦政府が大規模予算を注ぎ込んだ分野の事態が改善されたと思っている人は5人に1人にも満たないという。同様に、大学を信頼する人は1960年代半ばには六割だが、今では30%であり、報道機関についても29%から14%へ、医療も73%から29%へと低下するなど、公共セクター全般への不信感が広がっている。しかし他方で、市民は政府関係者との接点をかつてないほど求めている。最新の通信技術で広報媒体が次々と情報提供する結果、人間的要素が希薄化し、巨大な何かに市民は操られている感じを深めているからか。しかも不信感は伝染性で、政府のある面が信頼されなくなると、他の分野の政府評価は加速的に厳しくなる。不信感の広がりを反転させるにはガバナンス(統治)や政策の内容の改善が必要で、その答えは、信頼が上向いた国を集中的に研究することだと行政大学院らしく指摘する。
 かつて日本経済が集中的に研究されたその政府では、いまはデンマーク研究が進んでいる。信頼されない、という現実の受け止め方の真剣さを日本も学ぶ必要があろう。
 ぜひ福田総理に一読いただきたい。

なぜ政府は信頼されないのか―MPAテキスト
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2007年10月11日

養老猛司著『人間科学』

 人間科学
 「情報」と「生きているシステム」の二つのキーワードを軸に、生物としてのヒトと、ヒトがつくる社会を、共に読み解こうとする試みである。情報は不変であるが生きているシステム(たとえば、あなた自身)は時々刻々と変化している。多くの人はそうは思っておらず、不変の自己が変化する情報に追いつけない、と思っているのかもしれない。なぜそうなるのか。意識は、自分は不変の情報であってシステムではない、と規定するからである。そう著者は説く。
 もちろん、そう自己規定している意識そのものは、不変の情報ではなく変化するシステムとしての脳から生じるのである。この本を読みこなすには、この話をぜひ理解する必要がある。養老の本は字面から想像するほど、実は読みやすくない。前提と結論しか書いていないことも多いからである。しかし、この本に関していえば、情報と生きているシステムの関係さえ理解してしまえば、後はすらすら読めると思う。
 この本の立場は二元論であると著者は言う。この二元論は二重になっていて、情報(不変)、システム(無常)二元論であると同時に、「脳ー言葉」「細胞ー遺伝子」、言い換えれば心と体の二元論でもある。昔からよくある心身二元論と異なるのは、この両者共に情報(言葉・遺伝子)とシステム(脳・細胞)の相関として捉えなければ、理解できない、と主張していることだ。心も体も、その基本構造は同型である。考えてみれば当たり前のことであるが、そう主張する人は多くない。
 ここから引き出せるお話は、ゆえになかなか斬新である。いわく、自然選択とは、情報系について成立する法則であって、それだけのことである。いわく、自己とは基本的に社会的な(すなわち他人による)規定であり、社会的に規定されない本来の自己は身体である。面白すぎると私は思うが、今ひとつわからない人は是非本書を読んでほしい。

人間科学
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2007年10月06日

大江健三郎著『さようなら 私の本よ』

 さようなら、私の本よ!
 見慣れたもののように思える対象の前で、私たちはつい油断する。『さようなら、私の本よ』は、一見、作者自身の生活に取材した「私小説」のようでありながら、それとは全く別の「何か」なのではないか。読んでいる間、そんな思いが脳裏を離れなかった。
 国際的な文学賞を受けた古義人とアメリカの大学で問題を起こした建築家の繁が、「おかしな二人組」として「老人の愚行」をたくらむ。「ミシマ」を巡る議論と絡んで、日常の些事の中に見え隠れしつつ半ば気晴らしのように進行した計画は、結末に至って一つのカタストロフを引き起こす。それは確かに一つの悲劇ではあるが、そこに至る細々とした交渉を巡るナラティヴ(語り口)の中にこそ、いかにも小説らしい、一つの印象を回収することができない滋養に満ちた「旨み」はあった。
 世界の大事もまた、身辺の小事の中に反映される。愛読した本を処分し、自分自身の作品の翻訳さえ破棄する古義人にとって、世界はどのように映るのか。日々の雑事に追われる「小さな老人」の家の中でこそ、作家の精神は何らかの「徴候」を掴むのではないか。肉体が老年を迎えるとともに、核兵器が廃絶される気配を見せない世界自体もまた、綻んでいくようにさえ感じられる。そのような小事と大事の交感の中にこそ、文学固有のリアリティはある。
 バークレイの大学新聞に客員教授の肖像漫画を描かれた古義人は、「フクロウ」と評された。フクロウの眼は、古来、神のそれに喩えられる。木の枝に止まり、見繕いしながら、フクロウは暗闇の中へと視線を向ける。
 その大きな眼球に映る様々なものは、「私」事でもあり、大世界でもある。「私小説」のようでありながら、それとは違う何か。何かを錠ばせつつ新しいものに至る道を拓いたのは、「老人の愚行」だったのである。

さようなら、私の本よ!
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2007年10月03日

佐藤俊樹著『桜が創った「日本」』

 桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)
 評者を含め、平均的な日本人は、大方桜好きだろう。当然そのことに対する反発も生じる。また同じ桜でも、日本の桜の八割を占めるというソメイヨシノに対して、ヤマザクラその他を推賞する声ももちろんある。というより、ソメイヨシノは新しい人工のニセ桜、ヤマザクラこそ日本古来の真正の桜と主張する声の方が、際立って聞こえるかもしれない。
 しかしこの本によると、人工か自然かという二項対決は、そもそも意味を成さない。たしかにソメイヨシノには人間の手が加えられているが、木のほうからすれば、人間を利用して今日の繁栄をきたしたのだといえる。それを不自然と言い立てるのは、人間中心主義の傲慢な自然観にすぎないと著者はいう。しかも、ヤマザクラの礼賛者でさえ、実はソメイヨシノの特性をヤマザクラに重ね合わせたまま、歴史を確かめもせずに、日本古来の本物といった観念を、そちらに押し付けているというのである。
 観念と実体を取り違えるのは錯覚であり、錯覚を錯覚として認識しないのは愚かである。著者は引いていないが、花なら「吉野」といえばよい、吉野山がどこか知る必要はないと言い切った中世歌人のように、名前(言葉)を絶対視するのは、文学者の姿勢としていっそすがすがしいだろう。しかし実体から遊離して、個人的な感傷に迷い込むおぼろげな修辞の類は、著者の批判の的となる。一番好きなのはオオシマザクラと、自己の好みを明言する著者の桜への愛が、なまなかの熱中でないことは歴然としているが、そうした人の言説であればこそ、この本に示された認識と批判は、刺激的でもあり有意義でもある啓蒙性を保持している。

桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)
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小野正嗣著『にぎやかな湾に背負われた船』

 にぎやかな湾に背負われた船 (朝日文庫)
 「わからない」というあっけらかんとした断言で、物語はいきなり始まる。「湾の上には誰のものでもない船が浮かんだままだったし、ミツグアザムイが浜にあるという屍はどこにあるのかわからないままだった」不審船が湾に浮かび、浜には謎の屍体が埋まっているこの物騒な土地自体、「浦」と呼ばれるばかりでどこにあるのかわからない。「ミツグアザムイ」などという昆虫みたいな名前の人間が日本人かどうかもわからない。そもそも、そうしたすべてをわからないと臆面もなく揚言している語り手が、男か女かもわからない。
 いくつかの謎は徐々に解き明かされてゆくが、ページを繰るにつれて新たな謎もまたぞろぞろと転がり出てくる。深夜の峠道で轢かれたのは鹿だったのか「トシコ婆」だったのか。湾に出現した「緑丸」の船名はなぜ「緑丸」と書き間違えられているのか。最後にとうとう「緑丸」に乗り込んでみても、その船倉にあったのが腐ったハマチだったのか、折り重なるように倒れてウジを涌かせている何十人もの中国密航者の屍骸だったのか、結局それもわからない。
 この「わからない」の連騰が、真偽入りの乱れる語りの混乱振りと相まって、絶妙なサスペンスを醸し出してゆく。書き手自身がけろりとソッポをむいているような、べとつかないユーモアがまたすばらしい。グロテスクへの嗜好がやや中途半端だとか、歴史的記憶への参照と「ポストモダン」ふうの軽やかさとが、ちぐはぐな印象を与えるといった意地悪な感想もありえようが、小野正嗣はむろんガルシア=マルケスでも中上健次でもない。次作以降、彼は独自の語りの技芸にさらに磨きをかけ、軽さと重さとの間のきわどいバランスを洗練させてゆくに違いない。評者に「わかる」のは、この三島賞受賞作品が繊細と骨太を併せ持つ強力な物語作家の誕生を告げているという事実だけである。

にぎやかな湾に背負われた船 (朝日文庫)
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2007年10月02日

小阪国継著『西田幾多朗の思想』

 西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫)
 『善の研究』を私は三冊持っている。いつかは通読しなければと焦燥にも似た気持ちを抱き続けながら、今なお読みきっていない。
 私にとっては難解すぎて、何度試みても挫折してしまうのだ。ところが、ある日、古本屋でNHKラジオのテキストを見つけた。ああこれなら少しわかるかもしれないと希望を持った。それを元にしたのが、本文庫なのである。
 例えば「純粋経験」の説明はこんな具合だ。<道を歩いていて、思いがけなく野辺に咲く花を見、「アッ」と驚きの言葉を発したその瞬間の状態が純粋経験である。その瞬間においては自分と花は一体になっていて両者の区別はない。ただ一つの事実があるだけである>
 このようにして「絶対矛盾的自己同一」「絶対無の自覚」「行為的直観」など、私たち素人にはなかなか理解できない西田哲学のキー概念が解析されていく。そして、西田の人と思想から何を学ぶべきなのかという実践的な指針を与えてくれるのである。私にとって極めて印象に残ったのが、西田自身の次の言葉である。
 「私の生涯はきわめて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。」
 「午前座禅、午後座禅、夜座禅」
 「朝におもひ夕におもひ夜におもひにおもふわが心かな」
 「余の妻よりよき妻は多かるべく、余の友よりよき友は多かるしべし。しかし余の妻は余の妻にして余の友は余の友なり」
 ひたすら座禅を組み、思索を重ねる壮絶なまでの求道者の一方で、深い情愛の人となりがくっきりと浮かび上がってくるのである。

西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫)
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